リメイク版・温故知新

かつて映画化された原作を再び映画化する。
いわゆる「リメイク」された映画が幾つかあります。
最近僕が見た2つのリメイク作品を紹介します。

このコラムには、重要なネタバレを含みます。
今後、映画を見てみたいと思う方は読まないでください。


『まごころを君に』『アルジャーノンに花束を』
 <原作>ダニエル・キイス
まごころを君に(1968年アメリカ/ヒューマンドラマ)
 <監督>ラルフ・ネルソン
アルジャーノンに花束を(2000年カナダ/ヒューマンドラマ)
 <監督>ジェフ・ブレックナー

 <基本的なストーリー>
知的障害を患う青年チャーリーは、脳手術によって一般人を上回る天才的な知能を身につける。そして自分と同様の手術を施された実験用のネズミ、アルジャーノンと仲よしになる。共に、周囲の予想を遥かに凌ぐ勢いで成長していく彼等。その姿に、プロジェクトを担当した誰もが成功を確信するのだが…。

脚本による解釈の違い
どちらの作品も、基本的なストーリーは同じ。
大きく違うのは、チャーリーが手術を受けてからの時間の流れ。
2000年版の方が作品全体の時間も短いのに、全体が丁寧に描かれている印象があります。手術で大きく知能が向上したこと、そして次第にその知能は低下してしまったこと。その過程で芽生えた先生との恋と別れ。そのあたりの描き方が2000年版の方が丁寧です。
逆に言えば1968年版の方ではスピード感があり、知能の低下という衝撃の事実にチャーリーがうちのめされ、恐怖する様が描かれているような気がします。
ここらへんは脚本家による原作の解釈の違いといえるでしょう。
同じ原作なのに、出来あがった作品は大きく違う。
比べて観られるリメイク版ならではの面白いところです。

胸をうつシーンの追加
1968年版にはないシーンが2000年版には幾つか追加されています。
知能の低下を覚悟したチャーリーが、元のようにパン工場で働けるように頼み込むシーン。知能は各段に進化したのに、わざとまた元のようにふるまうチャーリーの姿は涙すら誘います。
そして、これは名シーンと言えるものですが、死んでしまったネズミのアルジャーノンのためにお墓を掘り、埋めるシーン。このシーンの追加によって、チャーリーの悲しみがより深く描かれています。

『太陽がいっぱい』『リプリー』
 <原作>パトリシア・ハイスミス
太陽がいっぱい(1960年フランス、イタリア/サスペンス)
 <監督>ルネ・クレマン 
リプリー(1999年アメリカ/サスペンス)
 <監督>アンソニー・ミンゲラ

 <基本的なストーリー>
貧乏なアメリカ人青年トム・リプリーは、ある富豪からヨーロッパに行ったまま戻らない息子を連れ戻すように依頼される。イタリアに来たトムは彼を見つけるが、婚約者や大勢の友人に囲まれ、贅沢で気ままな生活を送る彼の生活は自分の境遇とあまりに違うものだった。そんなトムの心に、次第に嫉妬と羨望、殺意が芽生えていくのだった…。

設定の違いにより生じる解釈のズレ
基本的なストーリーは同じですが、設定が幾つか違います。

1960年版のスタートはイタリアからで、アメリカでのシーンはありません。それに対して1999年版ではアメリカから映画がスタートし、トムのアメリカでの暮らしぶりが描かれています。それによって彼の生きてきた人生の背景がより深く理解できます。
また、グリーンリーフ家の家業も変わっているし、舞台もサンフランシスコからニューヨークに変わっています。
さらに、トムとディッキー、マージ(1960年版ではフィリップとマルジュ)の出会いのシーンがあり、突然現われた身元不明の異邦人としてトムが描かれています。これによってトムの存在の不気味さが見ている側にも伝わります。
これらは後に作られた1999年版の方が優っていると思える部分です。

大きく作品のテーマを変えてしまった設定
それに対して、1999年版の方が不明瞭になってしまった部分があります。
1960年版ではトムは野心のある青年として描かれていますが、1999年版ではトムを同性愛の偏向がある青年と解釈しています。出会いのキッカケこそ「褒賞金のため」と共通していますが、金持ちの息子に近づいてからの心境が違います。
1960年版ではフィリップがアメリカに帰らないため、褒美も手に入れることができない。ならば殺して、その全てを奪ってしまおうという野心が生まれ、それによってフィリップを殺してしまうのです。
1999年版では、金のために近づいたものの、トムの中にはディッキーへの憧れが芽生えます。それは電車の中で寄り添って眠るシーンや、ボートで死体を抱きしめているシーンから窺えます。ディッキーを殺したのも、やきもちからです。
この違いによって、トムがフィリップ(ディッキー)の服を着てとがめられるシーンや、サインを真似るシーンも解釈が変わってきます。1960年版では、完全犯罪のために、完全に彼の役を演じるため。すべては金のためです。1999年版では、ディッキーへの慕情ゆえなのです。憧れの人になりきりたいという性質からです。
1999年版ではさらに、ピーターという人物が登場し、追い討ちをかけます。このことがトムの性癖を決定的なものとしています。

2つの別な作品として
1960版は、古い映画にありがちな展開で進みます。過去のシーン、予備知識の部分は回想や会話での解説にとどめ、あくまでも現在のシーンで話が展開する。物語は淡々と進むが、中盤の2つの殺人によって大きくストーリーが動いていく。そしてオチはあっさり、というもの。完全犯罪を目論んだトム・リプレーの野心は偶然にも死体が船とともに上がってしまったことで崩れます。野心たっぷりの男を演じたアラン・ドロンが秀逸だし、イタリアの海と空の青さが印象的な作品です。

1999年版は、テーマが完全犯罪から同性愛にうつってしまったことで希薄になった感があります。マット・デイモン演じるトム・リプリーはサイコな演技がある種変態的な感じだし。ジュード・ロウの道楽息子ぶりは板についていましたが。

あまり基本線は変わらず、より優れた作品となった『アルジャーノンに花束を』と比べると、『リプリー』は2つの異なる作品として解釈したほうがよさそうです。
単純に「リメイク」といっても様々ですね。

2002/4/10