人生というのは、捨てていく過程だ。
もしくは、持っているあらゆるものを忘れていく旅だ。
すべてのことにおいて、世の中は平等にできてはいないし
個人に都合のいいように世界は回ってはくれない。
悲しいけど、それが真理だ。

すべての人間は、あらゆる可能性と同時に、不平等という荷を負って生まれてくる。
小さい頃はなんにだって成れる気がするし
何もかもできるような気がする。
だけど「環境」という状況によってそれらの可能性は必然的に絞られていく。
音楽一家に生まれた子供は先天的な才能を伸ばすチャンスを得られるし
運動一家に生まれた子供は親の叶えられなかった夢を追わされるかもしれない。
平凡な家庭に生まれた子供は、あらゆる方向に道は広がっているけど
それらの道を選ぼうとするには過酷な鍛錬が必要になるだろう。

環境による影響を受けなかった選択肢も、やがてうち捨てられていく。
大人になっていくという過程は、多くの知識を知っていくことでもあり
自らの才能や感覚に諦めを覚えていくことでもある。

若い頃はそれらに反発して、自分が何かを成し遂げられる人間だと思う。
しかしそれは、時として残酷なまでに自分をうちのめしていく。

華々しい活躍を成し遂げる人がいる。
スポーツや音楽、文学や芸能、政治、経営、発明、研究・・・
その対象は様々だ。
平凡な人間は彼らの成功を羨ましく思うと同時に、自分に残されたはずの
可能性の泉が枯れていることに驚嘆する。

人は一生のうちに、たくさんのものを捨てていく。
それは望むと望まざるとに関わらず、日々打ち捨てられていく。
それらのものが、歩いてきた道に積み上げられた時、人は旅を終えるのだろう。

自分だけにあるはずの原石を、磨くことなく旅を終えていくのか。
それとも、僅かながらでもその輝きを増すことが出来るのか。
しかし、それに気づき、それに費やすには人生という時間はあまりにも短い。
時間さえも、人には平等ではないからだ。

人は一生の間に、どれだけのことをできるのか。

きっとそれは、すべての人に与えられた可能性の種子を実らせる養分、
すなわち人との出会いや、知的財産、社会的成功、それらあらゆる要素が結実して
成さしめるものなのに違いない。

道は多種多様だ。
長さも、その路面も、歩きやすさも、全く同じものはひとつとしてないはずだ。

その道を歩いた証として、何かひとつだけでも誇れるものがあれば
それはとても素敵で、素晴らしいことに違いない。

2004.10.13


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