Big-Daddy's Blues


狂ったような真夏の熱気が冷めて、秋が入れ替わりにこの街にやってきた。
だけど、季節の変化なんて俺にはどうでもいいことなんだ。
いつの頃からか、そんなくだらないことには興味がなくなっていた。

気がつけば、煙草を吸っていた。
忘れかけていたラッキーストライクの懐かしい香りが、肺に染みる。
昔、若かった頃に吸っていた時期はあるが、社会に出てからは、なんとなくやめていた。
同僚や上司たちが、仕事や人間関係でのそれぞれのグチや苛立ちを
煙にして吐き出しているのを見て、嫌気がさしたからだ。

俺の足は、知らないうちにその店へと向かって歩を進めていた。
その道を辿るのは、何年ぶりだろう。
かつては何度も、毎夜のようにさまよった冷たい路地。
“Cold Street”、その通り名がついていることは、この街のヤツなら誰でも知っている。
もちろん地図に載っている呼び名ではないが、俺たちは気に入っていた。
なんでそんな名前がついたかって?
その通りは、いつでも冷たいものだからさ。
殴り合って、動けなくなった時の背中へ頬に感じるアスファルトの冷たさ。
自分の名前や言葉すらわからなくなる程酔いつぶれて、倒れこんだ時の気持ちいい路上の冷度。
そんなひとつひとつが、季節やニュースや社会の事件よりも、よっぽど俺たちにはおあつらえ向きだった。
誰も、希望を持ってやってくるわけじゃない。そんなヤツ一人だっていやしないさ。
みんな、孤独を連れてやってくるのさ。

そんな路地に、俺たちが気に入ってる店がある。
正確な名前はちゃんとあるんだが、俺たちはその名前を呼ばない。
ビッグ・ダディの店。
俺たちがそう呼ぶバーに、みんなたむろしていたんだ。

ビッグ・ダディの店は、ごくありふれたバーだ。
シャレた音楽が流れているわけでもないし、とびきり美味い酒を飲ませるわけでもない。
気の利いたマスターがいるわけでもないし、上玉の女がいるわけでもない。
だけど不思議と、俺たちはその店でよくつるんでいた。
社会からあふれた泡のような存在の俺たちには、その店の焦げたように黒すぎる壁や
煙草の煙とわずかなクスリの興奮の上に何年にもわたって積み上げたような空気、
そして何よりも隠れ家のような、逃げ場所のような雰囲気が好きだったのかもしれない。

その店には、俺の仲間のほかにも常連客がいた。
商売がらみの男女もいれば、バイクを生き甲斐にしているヤツもいた。
そんな中に、俺たちがビッグ・ダディと呼んでいた男もいたんだ。
もちろんそいつの店というわけではないが、俺たちはなぜかそいつに会えるのが楽しくて
店の呼び名にしてしまったぐらいだ。

男は当時の俺たちより10か20は年上に思えた。
(それは仲間内の推測にすぎないので、実際の年齢は不明だ)
ストリートで出会う人間たちの暗黙のルールとして、素性を聞いたり、お互いの生活に
深入りすることはタブーだったので、俺たちは彼の本名も、職業も、家庭環境も知らない。
当然、仲間内では彼について様々な憶測が飛び交い、酒の肴には最高の話題だった。
それぐらいビッグ・ダディは謎が多く、魅力的な男だった。

ビッグ・ダディと呼んではいるが、それは俺たちからすれば多少皮肉を込められたものだった。
なんせ、彼の身長は160cmもないんじゃないかと思うぐらい小さかったからだ。
しかも彼はなぜか、俺たちのこの呼び名を気に入っているようだった。
彼の話はいつだって面白く、俺たちを熱くさせた。
俺たちが行った事もない外国の港の女のことや、ヤクザの世界での礼儀・・・
たぶんホラも多くふくまれていただろうが、他の大人たちの話す対面やうわべだけの四方山話より
よっぽど真実を含んでいるように思えたんだ。

いつものように、俺が“ビッグ・ダディの店”に入ると、俺の仲間はまだ誰も来ていなかった。
みんなそれぞれに学校や仕事があって、打ち合わせて店に集まっているわけではなかった。
知らず知らずにその店に集まっている、そんな仲間たちだった。

その夜俺は、とても気分がよかった。
なぜ気分がよかったのかは忘れてしまったが、浮いた気分のまま店のドアを開けようとして
入り口の段差で蹴躓いたのを覚えているからだ。

店に入ると、カウンターの奥から3番目、いつもの席でビッグ・ダディが一人で酒を飲んでいた。
客は他には誰もいないようだった。
 「よォ」
少しだけ白髪の混じった頭をわずかに俺のほうに向け、ビッグ・ダデイが微かに笑ってそう言った。
この店にいる限り、年齢差は感じなかった。
ここでは誰も、落伍者じゃない。自分が自分として存在していてもいい、そんな空気があるからだ。
そこでは年も性別も関係なかった。

俺はビッグ・ダディの隣のスツールに滑り込んだ。
 「ビッグ・ダディ、今夜は早いね」
 「ユウヤはいつもこの時間に来るのか」
 「いや、俺はバラバラだよ」
 「そうか、まあいい。何か飲めよ」
ビッグ・ダディは、いつにもまして大人独特の貫禄を見せながら俺にそう言った。
店内のBGMには、名前も知らないバンドのブルースが低く流れていた。

結局、その日仲間は誰も店にやって来ず、俺はビッグ・ダディと初めて二人きりで飲んだ。
いつものくだらない雑談もしたが、こんな話をしてくれたのをハッキリ覚えている。

 「ユウヤ、お前友達は多いのか?」
 「友達?ここでつるんでるヤツらのこと?」
 「それ以外に・・・学校とか、いろいろあるだろう」
 「あぁ、そういうところで仲のいいヤツはいるけどね。結局、そこだけだな」
 「そうか」
ビッグ・ダディは、いつものカティサークを濃い目に割ってさらに続けた。
 「じゃあ、女はいるのか?」
 「彼女ってこと?仲のいいのは何人かいるけど・・・」
 「本気で好きな女はいるのか?」
 「そういうのはまだ、わかんねぇなぁ。好きってのと、愛してるってのは違う気がするしね」
 「遊びで付き合ってられる女が多いってのは、いいこった」
そう言ってゲラゲラ大きく笑った後、ビッグ・ダディはさらにこう言ったんだ。
 「じゃあ、本気で信じられる人間は周りにいるか?」
そう聞かれたとき、俺はなぜだかすごくドキッとしたんだ。
そんなこと聞かれたのは生まれて初めてだったし、それまで考えたこともなかったからね。
 「信じる・・・」
 「どうだ、信じられるヤツはいるか」
俺はウォッカを続けざまに煽りながら考えた。
 「どうかな・・・わかんねぇな。仲間はいるけど・・・」
 「ユウヤ、お前にもいつかわかる時がきっとくる。決して人を信じるな」
 「信じるな?信じろ、じゃないの?」
 「いいや。人は決して、信じてはいけない」
いつも陽気なビッグ・ダディが、初めて見せる本気の横顔だった。
ビッグ・ダディの、深い年輪の刻まれた日焼けした頬に、なぜだか俺は恐怖を感じた。
都合のいいことを言う大人は多かったが、本気で語る人間はいなかった。
だからこそ、俺にとって大人という存在は偽りの多いもの、忌むべきものとして感じられたし
近寄る必要のないものに思えたんだ。
だけど考えてみれば、ビッグ・ダディもそんな大人の一人だ。
そんな大人の一人が、初めて俺に、そう心から訴えかけている。
そのことになんだかとても驚いたし、軽く感動もした。

彼は、カティサークの瓶を空にして、マスターに次のボトルを頼みながらさらに続けた。
 「いいかユウヤ、これだけは忘れるな。人は決して、信じてはいけない。どんなことがあってもだ。
  この世で信じていいのはたった2人だけ、お前の親だけだ。
  子供を愛さない親はいないし、親の愛は利益に関係ないものだからな。
  友達や女、大人たち、女房や子供だってそうだ。すべての人間は信じるな。
  表面的にはうまい関係をつくってもいい。だが、最後の一歩は踏み止まるんだ。
  人はいつか必ず、裏切る。そして去っていく。傷つくのは、いつだって取り残された自分だけなんだ」
 「親だけ、か・・・」
 「そうだ。例外はない。事の大小はあるかもしれない。裏切らない人間もいるかもしれない。
  だがな、それもいつまでも続くものじゃない。きっかけがあれば、人は簡単に変わるもんだ。
  自分以外の人間なんて、簡単に踏みにじることができるんだよ。
  誰だって、大切なのは自分だからな」
 「ど、どうしたんだよ。ビッグ・ダディ」
俺が驚いて対応に困っていると、我に返ったかのようにビッグ・ダディは顔を背けた。
いつになく、熱っぽく語ってしまったことに自分でも驚いているのか。
それとも、年端もいかない若造相手に、人生訓を垂れたことを恥ずかしく思っているのか。
 「すまん。ちょっと熱くなってしまった」
 「いいけどさ。でも・・・そうなると、俺もビッグ・ダディのことを信じるな、ということだよ」
 「そうだな」
 「だけど俺には、ビッグ・ダディは他の大人と違うと思えるよ」
 「ダメだ。そうやって心を許すことから、間違いが始まるんだ。
  こうやって話してはいても、俺がどこの誰か知らないだろう。俺もユウヤのことは、名前しか知らない。
  人と人が出会って、新しい関係が始まって、いろいろなことがあるだろう。
  だがな、心の片隅ではいつも、警戒心を忘れてはいけない。
  例えて言えば、笑いあっている目の前の人間が、いつか自分を殺す運命かもしれないだろう。
  それは極端な例えだが、そういう心構えでいろ、ということだ」
 「心の準備をしておけ、ということ?」
 「そうとも言えるな。全てを許し切って信じるな、ということだ」
 「わかったよ。これからはそうやって人と付き合っていくことにするよ」
 「それでいい」
ビッグ・ダディは満足そうにカティサークを飲み干した。

あれから何度も“ビッグ・ダディの店”には行ったけど、あの夜以来、ビッグ・ダディに会うことはなかった。
始めの頃は酒の肴に様々な噂話もとびかった。
癌で死んだとか、どこそこの港で女と暮らしているだとか、ヤクザに刺されたんじゃないかとか。
だけどいつしか、話題にものぼらなくなっていった。
もともと知らない者同士だし、気にかけることも仲間内では面倒になっていったのかもしれない。

仲間たちには、あの夜のことは誰にも話していない。
ビッグ・ダディの話を真に受けたわけではないが、俺自身、心の中で何かが変わった気がしていた。

学校を卒業してからは、次第に店からも足が遠のいていった。
俺自身、いろいろなことがあった。
人並みにつらい経験もしたが、それも乗り越えられたのはビッグ・ダディの提言があったからのような気もする。
事実、俺は誰も信じていない。
よく接してくれる新しい仲間もできたし、いつも傍で微笑んでくれる彼女とも出会った。
傍目には、問題のない人間付き合いができているはずだ。
だけど、いつも心の片隅にはビッグ・ダディの低い笑い声が昨日のことのように響いている。
ビッグ・ダディがなぜあんなことを言ったのか。
あの頃はわからなかったが、今ではわかる気がする。

数年ぶりに訪れる“ビッグ・ダディの店”。
マスターは珍しい人間がやってきた、とはがりに一瞬だけ表情を崩したが
すぐに、いつものように無関心を装ったような顔に戻っていった。
相変わらずさびれた店だ。
だが今夜の俺には、この店の空気が懐かしい。
若い頃、ビッグ・ダディと話した夜が昨夜のことのように感じられた。

俺は人を信じない。
心を閉ざしていることに嫌気がさして去っていく人間がいるとすれば、それもそれだけのことだ。
そして俺もいつしか年をとり、ビッグ・ダディのように、若者に教えを垂れる日がくるのだろうか。

2004.9.13


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