出せなかった手紙


拝啓

随分ご無沙汰していますが、お元気ですか。
昔はよくお手紙をいただいたものでしたが
今回、ふと思い立って久しぶりにペンをとってみました。


最後にお会いしてから・・・もう何年が経つでしょうか。
季節は幾たびも流れ、街も人も変わっていきました。

あなたの住む街を離れてから随分経ちますが、人づてに聞いたところによると
だいぶ街の様子も変わってしまったようですね。
駅前には高層のビルが増え、車道を広くする工事で区画整理が進んだとか。
仲間たちとよく集い、笑いあったあのお店もなくなってしまったと聞きました。
致し方ないこととはいえ、幾分か寂しさをおぼえてしまいます。
自分が過ごした街の景色を、いつまでも心の中に焼き付けておきたい。
そのままの、ありのままの姿を留めていてほしい。
そう考えるのは、過ぎ去った季節に懐古的な心情が働くのか・・・
それとも私が年をとったからでしょうか。

誰しもがそうであるように、私も年をとりました。
転居先で新しい学校に通い、卒業し、勤めに出、人並みに暮らすようになりました。
その間にも何度か葉書や年賀状、書中見舞いなどをいただき、ありがとうございました。
いつもお返事が送れてしまっていて、申し訳ありません。
私が筆不精だからと言ってしまえばそれまでなのですが
返事を書くたびにいつも書きそびれていた思いを
うまく言葉にすることができなかったからでもありました。
結局それは、終に実現できなかったのですが・・・
それもあって今回、突然のお手紙を書く気になったのかもしれません。


私の現状ですが、私はまだ独身です。
真剣に結婚を考えた相手もいたにはいたのですが・・・
なぜだか最後には、結局うまくいかないのでした。
それが、私が生来持っている気質によるものなのか、それとも友人たちが皆
口を揃えてそう慰めてくれるかのように、縁がなかったからなのか。
それも今となってはわかりません。

変化のない日々に飽き飽きするたび、時折後悔の念が胸をよぎることもあります。
あの時、どうしてもっとうまい言葉を選べなかったのだろうとか、
もっとうまく振舞って相手を傷つけないようにするべきだったとか。
それは老若男女を問わず、誰しもが生きていく中で抱えるものだと思います。
恋愛でも、仕事でも、その他のあらゆることで思い通りにならないことはあるものです。

先日、ちょっとした旅行に出かけました。
そこは初めて訪れる土地だったのですが、とても美しい景色と美食の数々が私を迎えてくれました。
忙しい日常に追われているうちに失いかけてしまう大切なもの。
それを再び思い出すことができたような旅でした。

少し長くなってしまうかもしれませんが、その時の思い出をひとつ、聞いてください。


それは、街からは遠く離れた、山をふたつほど越えたところにある湖でした。
あまり観光客向きではないのか、それほど道も混んでおらず、快適な旅程でした。
その日の宿に決めた旅館にチェックインを済ませ、私は外に出ました。
夕暮れの近い湖のほとりを散策してみようと思ったのです。

旅館のフロントで道を訪ね、教えられた通りに石段を降りていきました。
するとすぐ、目の前に夕陽に照らされ水面をほのかに紅く染めた湖が横たわっていました。
湖ですから当然海のような波もなく、風もないために湖は驚くほど静かでした。
湖のすぐ傍まで降りていくと、私は驚きました。
水面が、驚くほど透き通っていたからです。
日本中にある透き通った湖の上位にこの湖が入っているのかどうかはわかりませんが
私が今までに見た中では、最も透き通った湖でした。

艀に沿ってしばらく歩いてみました。
ほとりに如かれた砂利石にぶつかる水の音だけがかすかに空気を振るわせ、
足元に踏みしめられた木の枝が低い音をたてていました。
私は湖のほとりのベンチに腰をおろし、持ってきた読みかけの本を開きました。
人気のない湖のほとりは読書には格好の場所でしたが、幾分かの寂寥感もありました。

私が本を読みふけっている間に、時間が流れたようでした。
何時の間にか艀には釣り糸をたらす男性の姿が見えました。
そして、私のそばに、子犬を連れた少年が近づいてきました。
少年が止めるのも聞かず、子犬は私の足元に近づいてきました。
そして、私の座るベンチのすぐ傍の草を啄ばんでいました。
 「この犬、草が好きなんです」
小学校低学年ぐらいに見えるその少年は笑顔を浮かべ、私に話し掛けてきました。
屈託のないその微笑みは、大人の私にはもう取り戻せない輝きを放っていました。
 「この犬、ミニチュアダックスフンドなんです」
見ると、その茶色の犬は胴が長く足が短い犬でした。
私が微笑み返すと、少年はさらに言葉を継ぎました。
 「ぼくは散歩。お父さんはあそこで釣りをしてるんです」
少年は艀に立つ男性を指差しました。
私が相槌をうって微笑みかけると、少年は満足したようでした。
 「お父さーん。釣れたー?」
少年は大きな声でそう呼びかけると、父親の元に走っていきました。
水際に立ち釣り糸を垂れる父親と、子犬を連れた息子。
その二人を、湖に沈もうとしている夕陽が照らしていました。
長く伸びた影が、まるで幸せそうな二人を支えているようでした。
母親は家で夕飯の準備をしているのでしょうか。
私が想像で描きうる限りの幸福をたたえた家族のようでした。

夕陽が湖に顔を沈め、まだ明るい空には白い月が小さく坐していました。
空はまだ水色で、夜を迎える前の最後のひとときでした。
 「水色って不思議よね。水には色はないのに、どうしてそう呼ぶのかしら」
そう私に話してくれたのは、たしかあなただったと記憶しています。
その時はわけもなく笑ったものでしたが、今になって考えると
幼いあなたの洞察力と思慮深さをあらわす思い出のひとつです。

少し肌寒くなってきたので、私は湖を後にしました。
湖のほとりには土産もの屋が四、五軒ほど軒を並べていました。
観光のシーズンだというのに、あまり賑わってはいないようでした。
もう時間も遅いためか、ほとんどの店は閉まっていて、
開いているのはわずかに一軒だけでした。
私は導かれるようにしてその店に入っていきました。

店は意外に広いたたずまいで、色とりどりの土産ものがぎっしりと並んでいました。
どこでも見かけるようなものから、初めて見るようなものまで様々でした。
レジには若い女性が一人いて、「いらっしゃいませ」と声をかけてくれました。
年の頃は私と一緒か、一つ二つ前後するぐらいかもしれません。
決して都会とは言えず、むしろ田舎と呼べるこの湖のほとりの土産もの屋には
あまりにつかわしくない、少し派手めな装いの女性でした。
髪は明るい茶色に染めていて、今時の若い女性らしいといえばらしいのですが。
やがて地元の人らしい中年の女性が店に入ってきて、缶ビールを注文しました。
店員の女性としばらく他愛のない会話をしていましたが、
店に客がいると気づいたのか、ビールの箱を持っていそいそと出ていきました。

しばらく店の中を物色していた私でしたが、気に入ったものを見つけたので
レジに持っていきました。そこで、私は驚きました。
彼女は近くで見ると、どこかあなたを思い起こさせる面影があったからです。
全く似ても似つかない雰囲気なのに、どこか似ている。
そんな不思議な感覚を抱きました。

私が買ったものを彼女は袋に入れようとしていましたが、なにやら手間取っているようでした。
 「ごめんなさい。手がかじかんでいて」
彼女は困ったような微笑みをうかべつつ、そう言いました。
 「たしかに、ちょっと寒いですからね」
店の入り口の戸は開け放たれたままで、湖から肌寒い風が吹き込んでいました。
 「もう初夏とはいえ、まだまだ肌寒いですね」
私がそう言葉をかける間も、彼女は土産物の梱包に手間取っていました。
 「ゆっくりでいいですよ」
そう言いかけて私が手をだしかけると、偶然彼女の手に触れました。
驚くほど冷たい手でした。
 「ゆっくりでいいですよ」
再びそう言うと、彼女はようやく落ちついたようでした。

ようやく梱包を終えた彼女の手を、決して意識してそうしたわけではないのですが
私はとっさに自分の手で包んでいました。
彼女は驚いた様子でしたが、私の手を振りほどくでもなくそのままでいました。
 「すごく冷たい手ですね」
手が暖まったからか、突然の来客の行動に驚いたからか、彼女の白い頬が
やんわりと朱をさしたように染まったようでした。

彼女の手が若干暖まったように感じられたので、私は手を離しました。
時間にして数分のことでしたが、とても長い時間のようにも感じられました。
私の胸は幾分高鳴っていました。
なぜ突然、そのような行動に出たのか自分でもわからなかったのです。

 「観光の方ですか」
彼女はそう話しかけてきました。
 「そうです。観光で湖を訪れました」
 「何処からですか?」
 「東京からです」
 「一人で・・・ですか」
 「いいえ、家族と一緒なんです」
その時私は、両親とともに旅行に来ていたのでした。
 「そうなんですか」
会話中、彼女は私には到底理解できないような表情の変化をいくつか見せていましたが
やがてそれは、もとの笑顔に戻りました。とても感じのいい、どことなく品のある笑顔でした。

もう二、三言、言葉を交わし、私は店を出ました。
店を出る私を、彼女は小さく手を振って送り出してくれました。
私は彼女が包んでくれた土産の包みを掲げ、お辞儀をして店を出ました。
店の外に出ると、あたりはもう暗くなっていて、先ほどは恥ずかしそうに佇んでいた月が
今では堂々と自分の場所を得たかのように輝いていました。
艀で釣りをしていた親子の姿は消えていました。


その旅から帰ってきた後も、私は何度かその時のことを振りかえってみました。
なぜ私はあの時、あんな行動に出たのだろう、と。
思い返せばずっと昔、これと同じような体験をしたことがありました。
あなたはもう忘れてしまったかもしれませんが、私は今もはっきりと覚えています。
まだ多感な時期だった頃の私が、いつもあなたの笑顔を追いかけていた頃。
その気品に満ちた立ち居振舞いや、まるで音楽のような美しい声。
そして、いつも自信に満ちた表情だったはずのあなたが・・・
たった一度だけ、私の前で見せた涙を。

いつもの通学路で他愛のない会話をかわしていたこと。
でも、晩秋のあの日だけは、あなたの表情が朝から冴えなかった。
私はずっと気になっていたのですが、帰り道、思いきってその理由を尋ねてみました。
元気がないようだけど、どうしたの、と。
するとあなたは目にいっぱいの涙をうかべて、私の方を向き・・・
大好きなお婆さんが亡くなったのだと告げました。
もしその時私が大人だったら、あなたを抱きしめてあげることもできたでしょう。
ですが、その頃の私はいったいどうしたらいいのかわからずに
あなたの手を握ってあげることしかできませんでした。
それが、あの時の私にできる精一杯のことでした。
あなたは私に手を握られたまま、もう片方の手で涙をぬぐいながら、
必死に声を押し殺しながら泣いていましたね。
私はそんなあなたを見つめてもいいものかどうか、そればかり考えていました。
あなたの冷たい手を握りながら、あなたの頬を絶え間なく流れ落ちる涙を見ていました。
思えばあの日から、私の中のあなたに対する気持ちがより大きくなったのでした。
私の初恋でした。

それからまもなくして、ご存知のように私たち家族は街を離れました。
あなたと離れなければならないのは辛かったのですが
まだ子供だった私にはどうすることもできませんでした。
街を離れる日の前夜、あなたの家を訪ね、私は言いましたね。
 「いつかきっと、また会おうね」
それだけを言うのがやっとでした。
その後のことは、あえて語る必要はないですね。


私が送ったたくさんの手紙、どうしていますか?
もしまだ保管してあるなら、どうか捨ててしまってください。
文面を詳しく思い出すことは出来ませんが、きっと顔から火が出るくらい
恥ずかしい内容の愛を語る言葉で溢れているはずです。

私は数年前、あなたから頂いた手紙を全て処分しました。
しかしつい先日、たまたま別に置いてあった葉書が一枚だけ出てきたのです。
ずっと昔に埋めたまま忘れていた宝物がひょっこり顔を出したように。
久しぶりにあなたの字を見たときは、懐かしさと甘酸っぱいような青春の思い出が
胸にこみあげてきたのでした。

随分長くなってしまいました。
そして、何を伝えたい手紙か、だんだんわからなくなってきました。
私も困っていますが、あなたもお困りでしょうね。
気持ちを落ちつけて、書きたいこと、ずっと伝えたかったことを書いてみます。


先日、旅先で湖を見たとき、はっきりとわかったことがあります。
あの晩秋の夕暮れ、私はあなたを抱きしめたかった。
そして、私の胸で思いきり泣いて欲しかった。
子供の私には難しいことでしたが、そうしたかった。
今ではそれができる年になりましたが、もうあの日には戻れません。

最後の夜以来、あなたに会えるはずの機会は何度かありましたが
結局、一度もあなたには会えませんでした。

手紙で何度も気持ちを分け合うよりも、あなたをこの腕に抱きしめて、
そして、私があなたをどれだけ愛していたのかはっきりと自分の口で告げたかった。
そうすれば私の人生も、もしかしたらあなたの人生も今とはすこし違ったものに
なっていたかもしれません。


もうひとつ、伝えたいことがあります。
それは、あなたへの感謝の気持ちです。
あなたが教えてくれたことはたくさんありました。
私が悩んでいたときは、相談にのってくれました。
私が悲しいときには、力強い言葉で元気づけてくれました。
私のこれまでの人生において、ごく限られたわずかな時間ではありますが、
あなたの言葉のおかげで苦難を乗り越えることができたことが何度かありました。
私に強さと優しさを教えてくれたのはあなたでした。
そのことに、今、心から感謝したいのです。


人づてですが、あなたが結婚されるということを聞きました。
どのような方が相手かはわかりませんが、きっとあなたが選んだ方ですから
素敵な方に違いありませんね。
相手の方に少し妬ける気もしますが、今となってはそれよりも
あなたに対する感謝の気持ちのほうが強いのです。


長くなりましたが、ずっと伝えたいと思っていたことが
ようやく言えたような気がします。
何度も書きかけては破いていた手紙。
ようやく書き上げて投函しようと思っても、何か言葉が足りないような気がして
どうしても出せなかったあの手紙。
それを今、ようやく出せたような気がします。

あなたが今、どんな暮らしなのかはわかりません。
ですが、この空の下・・・
幸せに、健やかに笑顔で暮らしてらっしゃることを願っています。

どうかお幸せに。
いつも、いつまでも幸福があなたと共にありますように。

敬具

2002.5.23


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