出会って、恋して、そして…


週末の鐘が鳴り、僕は列車に乗り込んだ

赤い空が、街を包んでいた
行き過ぎる車窓の景色はあの日見た海のように
いつまでも、何処までも続くようで僕をイライラさせた

時間と心は同じ速さでは歩けないから
時折見える白い壁の小さな家でさえも
サボテンのように心を閉ざした僕の心には映らないんだ

やがて車内に灯が点った
遠くに見える灯台の灯りが、どことなく悲しげに見えた

比べてみると、それはそれはとても大きなもの
だけど人には自分のことしか見えないものだから
流れゆく景色には気づかない

*

「とりあえず」という口癖のある人だった
そんな彼女と出会ったのは
何年か前の、ひどく暑い夏の日の夕方だった

その日に限って新聞もテレビも見ていなかった
だから当然
どしゃ降りの雨が降るなんて思ってもみなかった

困り果てて駅の出口に立ちつくす僕には
それが自分にかけられた声だって気がつくまでに
少しの時間がかかったんだ

「もしよかったら、使いますか」

彼女が僕にくれたのは透明なビニールの傘だった

「前に買った物だけど、今日はちゃんとした傘があるし、邪魔だから・・・」

そういう彼女の右手には、真っ赤な傘が握られていた

彼女にもらったビニールの傘は
1本だけ骨が曲がっていた

映画みたいなそんな出会いだった
友人にそのことを話すと、みんなに冷やかされたものだった
名前を聞くこともなかったけれど
明るい栗色の髪がとても綺麗な女性だった

*

次に彼女と会ったのは
仕事先の付き合いで顔を出した飲み会の席だった

僕は彼女だとすぐに気がついたけど
彼女は僕が傘をもらった男だとわかるまでに
少し時間がかかったようだった

僕が恋に落ちるまでに時間は必要なかった

*

季節がふたつ変わる頃には
二人の愛はずっと変わらないと思えるようになっていた

彼女が好きな赤色に僕の周りは染まっていった
男は女によって
女は男によって
変わるものなんだということが初めて実感できた

彼女のどうしても我慢ならないところが三つあった
僕と音楽の好みが違うことと
ちょっと現実的すぎるところ
いつのまにか僕を名前で呼ばなくなったことだ

でも僕は
彼女なしではいられなくなっていた
内心、彼女にもそれを求めていたけど
実際のところはよくわからなかった

愛が大きくなっていくにつれて
その影にはいつも嫉妬が芽生えていくのだった

彼女が誰か他の男と声をかわすたびに
なぜだかわからないけど
小さい針のようなものに
手の届かない身体のどこかを刺されているように感じた

寂しさの意味を少し知った気がした

*

いつのまにか車窓は夜の闇一色に支配されていた
電車に乗る前に買っておいた、すっかり冷たくなった駅弁で夕食をすませ
しばらく眠ることにした

夜が明けると窓の外には雄大な山が見えるだろう

車内灯が消えるまでにはもう少し時間があったけど
つかれきった身体には休息が必要だと思った

ちょっとだけでいい
ほんの少し眠るだけで・・・
何もかもが変わっていくような気がした

*

いつだったか彼女とこんな話をしたことがある

「私のこと、好き?」
「なんだよ、急に・・・もちろん、好きだよ」
「どのぐらい?」
「どのぐらいって・・・海より深く、かな」
「何よ、それ」
「すごく好きって喩えだよ」

彼女は飲みかけのグラスに残ったワインを揺らしながら
少し何かを考えているようだった

「人と人は、出会って、恋して、そして・・・どうなっていくのかな?」
「どうって・・・やがて愛し合うんじゃないか」
「違うと思うな。やがていつか・・・別れるんだと思うの」
「・・・」
「どんなに愛し合っていても、やがていつか別れが来る。
 生きているうちに別れるか、死んで別れるかの違いはあると思うけど」

「それはまあ、そうなんだろうけど」
「私はね。いつも不安になるの。何かを手に入れても・・・
 必ずいつか失うときがくる。そう思えてしまって」


彼女の小さな肩が、少し震えた気がした

大丈夫だよと、僕の愛は変わらないよと、そう言ってあげたかった
だけど僕にも
彼女と同じように考えるところは少なからずあった
僕らは・・・似た者同士だった
たとえ虚勢でも、そう言いきれる強さが欲しかった
不器用に、愛だけをまっすぐに信じられる純真さが欲しかった

*

すでに室内灯も消えた列車は
一本の黒い蛇のようになって
海沿いを静かに流れていった

*

出会いが突然なら、別れも突然だった

「もう、あなたとは一緒にいられなくなったの。
 嫌いになったわけではないけれど・・・
 やっぱり、無理だと思うようになってしまったの。
 そう思う気持ちのほうが、強くなってしまったの。ごめんなさい。
 本当に、ごめんなさい・・・。
 とりあえず、別れの言葉だけはちゃんと言いたかったから・・・。
 本当に、ごめんなさい・・・」


そう言い残すと、彼女は僕の元から去っていった
出会った日と同じように
激しく雨が屋根をたたいていた

とりあえずといういつもの口癖と
ごめんなさいという言葉が頭の中で
しばらく繰り返しこだましていた

*

今でも僕の周りには赤いものがいくつかある
日々に密着しすぎた生活というものは
忘れようと思ってもなかなか捨てきれないものだ
意図して始めたことでも、いつしかそれは習慣になった

二人が失った日々は
二人が築いた日々と同じだけの喜びと傷みを抱えて
まるで砂で造った城のように
もろく、崩れ去っていく

だけど、悲しみに泣き濡れる夜は
一人だけの肩にはあまりにも重い

明けない夜は
融けない氷で作られた鎖のように
僕の身体を重く縛りつけて離さない

止まない雨は
火山の底のように燃え尽きぬ業火で
僕の心を焦がし続ける

そして僕は、寂しさの本当の意味を知った

悲しいほどの自由こそが
本当の寂しさなのだと

目が覚めると夜はすでに明けていて
真っ青な空と海が車窓を明るく照らしていた
雨だったらよかったのに・・・
ちょっとだけ、そう思った

反対側の座席の窓には
大きな山がまるで貼りつけられた絵画のように
まったく動くことなく座りつづけていた

涙と暮らす日々はもう終わりにしよう
この街で新しい何かが僕を待っているはずだから

今もし彼女に聞かれたら、こう答えようと思う

出会って、恋して、そして・・・人は、自由になる、と。

2001.8.7
2001.9.5改訂


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