青き夢の果てに
何日も降り続いた雨。
鬱陶しい梅雨の空が、その日に限っては嘘のように晴れわたっていた。
僕はいつもするように、車を走らせて海へ向かった。
もう3時になるというのに、太陽はアスファルトを強く照らしていた。車で15分。
これは、かなり近い距離だといえるだろう。学生の頃は、地下鉄の駅まで10分歩いて行動していたものだ。
車というものは、なんと便利なのだろう。
駐車場に車をとめて、砂浜に足を踏み入れる。
ザザーッという波の音、青い海と真っ青な空、白い砂浜。
ふと見ると、大きな建物をたてている。「海の家」というやつだ。
海開きが近いのだろう。今日でも、もう泳げそうなほどの陽気だが。
サンダルをぬぎ、海まで歩いた。砂が熱くなっている。
押し寄せる波に素足をひたしてみると、冷たかった。
しばらく押してはひく波とたわむれていたが、それも飽きてきたので砂浜にあがってきた。
近くに、うちあげられたボートがあり、そこが僕のお気に入りの場所でもあった。
黄色い腹をみせてひっくりかえっているボートに腰をおろす。こうしていると濡れた足も乾き、砂もおとせるのだ。
ポケットから文庫本をとりだし、ボートに横になる。
白いページのむこうには、青空がひろがっている。ほのかな潮風と、波の音をBGMに読み始めた。
仰向けに本を読みながら、ふと顔だけを海のほうにむけてみた。
砂浜、海、空が川の字になって縦にならんでいる。
視界の左はし、砂浜にたたずむ人影が見えた。本を閉じて上半身を起こし、よく見てみることにした。
ショートカットだが、細見の体つきは女の子だろう。
海を見ているので、顔は見えない。紺色のTシャツに、青いジーンズ。
海から空から、服まですべて青づくしか、と思ってなんか可笑しくなってしまった。
僕はボートから立ち上がった。
すこし茶色がかったような髪が風にゆれ、瞳はずっと海を見つめている。
砂浜に直に腰をおろしていた彼女は僕と同じくらい、22、23ぐらいに見える。
「今日は天気いいよね」
突然背後からかかった声におどろいて彼女はふりむいた。
斜め後ろから想像していたよりも、はるかに可愛かった。
「最近ずっと雨だったからね」
僕は次の言葉を継ないだ。彼女はまだ戸惑ったようだったが、
「ええ…気持ちいいですよね」
と応えてくれた。
「となり…いい?」
「いいですよ。誰もいないし…」
彼女はすこし笑顔になった。僕はとなりに腰をおろしながら、
「海っていいよね。どれだけ見てても飽きない」
「そうですよね。なんか、見とれちゃう」
「家、この近くなの?」
「いえ。ちょっと離れてる…かな?学校がこの近くで。
帰りに、たまにこうやって海を見に来たり、ブラブラしてるんです」
この近くということは、Y女子短大だろうか。
「で、今日は帰り道なんだ?」
「ええ。今日は講義が休講になって…」
「ひとりできたの?」
「友達はみんな先約があって…私、暇なんですよ」
そういって彼女は髪を手ですきながら白い歯をみせて微笑んだ。
「貴方は…今日は休みなんですか?」
今度は彼女が質問してきた。
「うん…まあ、そういうようなもの。仕事、休みでね」
まさか休職中とも言えない。
「働いてる方なんですか?」
「うん…まぁね。じゃ、僕の方が年上なのかな?」
「あ、私21です」
「僕は23だから、2つ違いだね」
お互いすこし照れ笑いのようなものをうかべた。
「で、これってナンパなんですか?」
急にドキッとするようなことを聞いてくるなあ。
「いや、違うって…。ただね。ひとりで座って海を見ている女の子がいる。
なにかあったのかな…?とか気になるでしょう。やっぱり」
「そうですか…?」
ちょっと今の答えは外したか。
「で…」
「ねぇ…」
二人の質問がダブってしまった。お互いにどうぞ、と照れ笑い。
「海、好きなんですか?」
彼女が先にきりだした。
「うん。よく来るよ。ボーッとしてたり、本を読んだり」
「え…海辺で読書ですか?いいですねぇ」
「いや、ただの文庫本だけどね。この海の、雰囲気が好きなんだ。落ち着くから」
「へぇ…私も今度本でも持ってこようかな」
「あ、そういえば名前。聞いてなかった」
「私は、日高優子といいます」
「優子かぁ。いい名前だね」
「そうですか?普通すぎていやだけど…」
「そんなことないよ。名前って、生まれてから初めてのプレゼントじゃない。両親からのさ。
僕も自分の名前好きじゃない時もあったけど、今は好きだよ」
「そうですね。ロマンチストですね」
直に言われると照れるなあ…。そして僕も自分の名前を名のった。
彼女はふと、腕時計を見た。今流行のタイプの時計だ。
「あ…そろそろバイトに行かないと」
「そう…。そんな時間か。結構しゃべってたかもね」
「話せて楽しかったです。また会えるといいですね」
「あ、電話してもいい?」
「いいですよ。でも、今書くものもってない」
「これを使ってさ…」
僕は文庫本を取り出した。
「あ、その作家私も好き。それで、どうするんですか?」
「これをね。番号いくつ?市内だよね」
「はい。24の…」
僕は12ページと24ページの隅を折りまげた。
「これでさ、わかるでしょ。1番目が2、2番目が4」
「頭いい!こんなふうに本を使うなんて」
「ははは。で、次は・・・?」
そして、8ページ分の隅が折りまげられた。
「これでOK。電話するね。」
「はい。じゃあ、これで。楽しかったです」
そういって彼女はたちあがって、歩きかけたが、ふと振りむいた。
「そういえば、さっきの、なんて言おうとしたんですか?」
「え…?」
「あの、さっき何かいいかけた…」
「ああ…」
僕は思わずふふ、と笑ってしまった。
「なんだったんですか?」
「いや、ねぇ、彼氏とかいるの?って聞こうとしたんだよ」
彼女は笑顔で即答して、手を振りながら駆け去っていった。
「いないですよ!」
彼女との出会いは、爽やかな時間を僕に残していった。
今度から海に来るときは、ひとりじゃないかもしれないなあ。
そう思って僕は、折り目のたくさんついた文庫本を眺めた。
その本のタイトルは、「青き夢の果てに」というものだった。
ふと、寒気に眼が覚めた。まわりはすでに薄暗くなっている。一瞬、自分の状態が理解できなかった。
どうやら、ボートに寝そべって読書をしているうちに、眠ってしまったらしい。
見渡す限り人影はなく、太陽はしずみかけ、水面は黄金色に輝いている。
青かった海も空も、その色はすでに失われ夜の色をまといつつあった。
潮風と波の音だけがかわらず感覚を刺激する。
「夢か…」
あまりにリアルな夢に、なんだか気味が悪くなったが、ここにいてもしょうがないので家に帰ることにした。
帰り道、車を運転しながらも可笑しくて笑ってしまった。
「なんて夢を見てるんだ…海まで行ってさ」
夕食を終え、TVのバラエティー番組を見る気にもなれず、新聞をひらいた。
そういえば、あの本まだ読みかけだし、読もうか…。
寝ている間に手から落ち、砂浜に角がささっていた文庫本。
『青き夢の果てに』は、恋愛小説だ。まだ読み出したばかりだったが。
ヒロインの名前は…日高優子?偶然か…それとも、無意識のうちに本の世界に入り込んでしまっていたのか?
主人公と彼女は、ある晴れた日、海で出会う…こんな偶然が…?
さらにページをめくったとき、最大の驚きがあった。12ページの角が、折れている。
いそいで、他のページを見てみると…24ページ、37ページと…合計8ページ分の折り目があった。
すべて夢のとおりに。
すべてをメモにかき出すと、僕は思い切って電話をしてみることにした。
「24−7…」
ひとつひとつ確認しながらダイヤルする。
呼び出し音が3回なった。そして…。
「もしもし…?」
(完)
1998.6.19