階段の上の凍てつく雲(2002.11.5)


記録的な寒波が日本列島を襲っている。
冷たい雨が降り続き、吐く息は白く、道を行く人々の足取りは重い。
寒さはまるで、人々の心までをも凍らせているようだ。

原因はわからないが、どこからか込み上げてくるどうしようもない焦燥。
それがハンドルにも伝わったのだろうか、気がつくと自然に海へと車を走らせていた。

冬なのだ、そう心の中で呟いてみた。

人の意思は時間をとめられず、太陽は東から昇り、西へと沈んでいく。
当たり前のように季節は流れ、風が吹き、水は落ち、日々は輝きを失っていく。
だが、不思議なことに・・・
そこだけは、まるで時間が止まったかのように、空間がそこから去るのを拒んでいるかのように。
いつもと変わらない景色を造り出していた。
気温や、風の色や、砂浜に残された誰かの足跡さえ違えど、何ひとつ変わらない。
時空の迷宮に迷いこんだような錯覚さえ憶えた。

傘をさし、湿った砂を踏みしめながら波打ち際を歩いた。
頬に吹きつける風は冷たく、真冬のそれのように熱を奪っていく。
冬なのだ、もう一度、今度は口に出して呟いてみた。

砂浜に寄せる波は、白く、高かった。
寄せるというより、まるで砂浜を切り裂くような、大地を切り裂くような波だった。
ゴウ、という轟音が刃物と化した波を、より一層研ぎ澄まされたものにしているようだった。

僕がこの海に好んで来るようになってから、どれぐらいの時が流れたのだろう。
様々な季節に、時には一人で、時には誰かと一緒に、ここで海を見ていた。
前述したように、景色は何も変わらない。
程度の差こそあれ、いつも同じように波が寄せ、海鳥が高く、速く飛び去っていく。
僕の方は、来るたびに何かが変わっているような気がする。
しかし、何ひとつ変わっていないような気もする。
考えれば考えるほど意識は果てのない螺旋階段を昇りつづけ、やがて元の場所に戻ってくる。
昇ることは下ることであり、下ることは昇ることでもある。
わかるようでわからない思考の堂々巡りが、果てることのない波のごとく続くのである。

人間は、二種類に分類することができる。
様々な事柄においてその内訳も変わるのであるが、この場合においては二つだ。
「一」を好むか、好まざるか。
つまり、「答えはひとつのほうがいい」か、「答えはひとつにあらず、決まっていないほうがいい」か。
具象的な例えをすれば「理系」と「文系」の思考に喩えられるかもしれないが、
その比喩は時として反例を生むので、良しとしない。

およそ物事が帰着する結論は、「原因」と「結果」の副産物である。
原因があって、理由がある。
すなわち、人の意思と行為によって、一連の現象が繋がりを持つものとして在ることを定義する解釈。
この場合、「原因」によってもたらされる「結果」はひとつもしくは複数の「答え」である。

だが、この定義が必ずしも正解でないとする意識がある。
これは反例ではなく、違った事柄として存在しえるものである。

具体的な例を挙げることはできないが、近頃、そのような思考が僕の視界を埋めているのである。

原因のわからぬ焦燥感も、波間に具間見える寂寥感も、異種にして同種のものなのだ。
すべては表と裏、背中併せに常に隣り合っているものだし、近くて遠く、遠くて近いところにあるものだ。

激しく打ち寄せる波にのって運ばれてきた風が、身体中に散って、そこに留まりながら消えていく。
それが観念によるものなのか、体感として得られるものなのかはわからない。
だが確実に、小さくて大きな、大きくて小さな何かがそこに「在る」のだ。

「実体」、「存在」に関して言及したのは、かのアリストテレスだった。
だが僕は、何も哲学を語ろうというのではない。
自分という存在に関しての、答えとなりうる「結果」の幾つかの事柄に関して、それが果たして本当に「原因」によるものなのか。
それとも「原因」に関わらず、それ以外の何らかの行為によって成されたものなのか。
その何らかの行為こそが「原因」とするなら、「結果」に結びついていないのは何故なのか。
そもそも、「原因」と「結果」とは異なるものなのか。それとも、同じ線上に置くべきものではないのか。
はたしてその概念すらも崩れてゆきそうになる危うさを含んだ問いなのか。
意識と無意識の狭間に概念と経験と知識が混在しているのなら、そこから産み出される
形のない雲のような意識にとらわれてしまうのは何故なのか。

終わりのない思考に疲れ果て、波を見つめていると、不思議な感覚にとらわれた。
幾段にも連なった波が、まるで階段のように思えてきたのだった。
白くて幅の広い、なだらかな階段。
そしてその向こうに、凍てついた雲が何かを暗示するかのように横たわっているのだ。
この階段を昇れば、答えが見つかるのかもしれない。
ふとそう思ってみたりもするのだが、初冬の海に無防備に踏みこむほど僕は自分を見失ってはいない。
だが、それもひとつの真理かもしれないと、そう思えてくるのである。
観念が意識を生むのなら、意識もまた概念に辿りつくはず。
階段を昇ることは、下ることなのだから。
噴霧と泡に形作られた階段の裏に、空の上に乗っている別の階段がある。
そこから来るものが、きっと答えを運んできてくれるのだろう。
遠いことは、近いことなのだから。

概念を解き放って凍てついた雲に触れたとき、その指先にははたして何が在るのだろうか。

しばらくたち、僕の足跡が消えかかった頃、そこを後にした。
砂浜を駐車場の方に歩いていくと、誰かが立てた竹が一本、砂浜に残されていた。
軽く足でふれてみると、その竹は簡単に倒れた。
歩幅ほどの長さのその竹は、海の方に向かって倒れたのだが・・・
なんだかそれが、とても滑稽なことのように思えた。
意思と行為か・・・。
答えは、あらゆるものに内包されている。
だからこそ、「原因」であり「結果」なのだろうか。

再び歩き出したとき、ゴウ、という波の轟音が一層強く耳に届いた。
冬なのだ、もう一度そう呟いてみた。
今年もまた、冬が始まるのだ。


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