黄昏の吐息(2001.5.13)
友達が遊びに来たので、夕方の6時すぎ、夕食の買出しに出かけた。
すると・・・夕日が、あまりにも綺麗だった。
まさに、赤い火の玉が空に浮かんでいるという感じ。
それを見て僕は、
「海に行って夕日を見ようか」
と提案した。
そしてすぐ、海に行った。
ウチから海まではクルマで10分ほどで行けるのだ。
しかし、着いたときには残念ながら夕日は沈んでしまっていて。
ついさっきまで夕日が空を染めていたという名残が、ただ山肌を赤く染めていた。
でも、空はまだほんのりと青く、明るくて。
ブルーとレッドのグラデーションが、なんとも言えないコントラストを成していた。
いつも思うんだけど、空の色を忠実に表現するのはどんなに優れた画家でも不可能なのではないかと思う。
しばらく二人で、海を眺め、波の音を聞いていた。
寄せては返す波を見ているうちに、人生とは波のうち寄せる砂浜のようなものかも知れないと思えた。
砂浜、地面が変わらないもの、安定したものだとして、寄せては返す波は自分以外のあらゆる外的要因
(家族や、友達や、あらゆる周囲の人々、芸術やスポーツ、文学など心揺さぶられるもの、
とにかくあらゆる自分以外のもの、事故や様々なアクシデントなどの偶発的要因も含めて)
だとすると、人は常に波と砂浜の接点(水と砂の混ざった部分、波でも砂浜でもない部分)に在ると思える。
自分は常に砂浜にいようとするんだけど、波が寄せては返すたびに、砂は水をふくみ、太陽の光に輝き、そして水がひき砂の色になる。
それは同一のようでいて、先刻までとは違うものだ。
見た目にはほとんど変わらないけど、新しい水に洗われ、違う要素を含んだものになるからだ。
自分自身の存在があって、他者の存在があって、それぞれが影響しあってひとつのものになる。
人生ってのも、そういうようなものなのかもしれないと思えた。
そうしているうちに、残光すらも微かなものになっていた。
山肌を染めていた赤はやがて濃い青に支配され、空の色が夜の黒に変わっていく。
最後のほのかな明かりに、波が輝いていた。
ふと周りを見ると、様々な人たちがいた。
犬を散歩させている女性。
波間にたたずむ恋人たち。
笑顔につつまれている家族連れ。
花火をうちあげている若者たち。
海は、人の心を洗ってくれると思う。
いや、洗うのではなくて顕うのかもしれない。
普段は見えないものが、口にでなかった言葉が、気づかなかった気持ちが、心の中をよぎる瞬間。
そんな刹那が、そこにはある。
黄昏の夕日に沈む海岸に、友のため息がまじった。
暖かな初夏の空気が、海の肌と触れ合う水面に飛び魚が舞った。
飛び魚は何度も何度も、飛びあがっていた。
青く沈んだ空が、重く感じられた。
波は、休むことなく砂浜を浸していく。
寄せては返し、永久に変わらない自然の営みを続けている。
自然は、時に厳しく、時に優しい。
夕日を見つめながら、そんなことを考えていた。
海岸を離れようとしたときには、もう飛び魚は舞わなかった。