夜の砂浜(1998.6.28)


愛知県で働いている高校時代の友達が、休日を利用して帰省してきた。
同じ富山県に住むもう一人の友達と3人で、ひさしぶりに会った。
彼らはそれぞれ大学時代を横浜、千葉ですごし、
千葉に住んでいた僕をあわせ3人でよく飲みに行ったものだった。
高校時代からの、心を許せる数少ない友達の2人だ。

大学の時には、会えば女の子の話ばかりしていたような気がする(笑)
目の前に壁も無く、ただ今日だけを見つめて生きていたあの頃。
しかし、久しぶりに会う彼らは高校、大学の頃とはすこし変わっていた。
話題に仕事の話が加わったためだ。いやな上役のことや、仕事の内容。
1年がすぎると、互いの視点というものも変わってくるものだ。
交通手段も、JR、地下鉄から車になった。
西船橋、渋谷、新宿、上野、柏、横浜、実籾。
酔いつぶれて歩いた街を覚えている。

田舎で育った人間というものは、都会育ちの人間とは根底で違うと思う。
些細な感性や、ものの見方、憧憬の対照、将来的視点など、様々の点で。
やはり育った土壌というものは人に対して影響を与えないわけはなく、どこかにそれらが見え隠れするのである。
住処の認識、というのだろうか。

田舎の人間も、都会の人間も、いずれは故郷に帰るのだと思っている。
その故郷が、田舎の人間にとっては「帰るべき故里」なのであって、
「都会は若いうちに活躍する場所」だ、というような深層意識がある。
都会の人間にとっては、住んでいる街がすなわち帰るべき巣なのであり、
そこから大きく離れることはない。

海の町に住んだ者にとって、海は行楽の対照ではなくなる。
豊富な海産物の恩恵にあずかり、生活に密着してくるのである。
もちろんレジャーとしても楽しむが、それに対する意識が楽観的である。
海を見ると落ち着く、というのはすべて地球上の万物の巣であるからだろうか。

話をもとに戻そう。彼らと、夕食などをすませてから、夜の海へと車を走らせた。
昼間は青い空、青い海、白い砂浜に集約されている世界も、
夜には一条の暗闇があたかも舞台の幕のように、視野を支配している。
空には、星と月の輝き。田舎にいると、星がよく見える。
闇のむこうから、ほのかな潮香と波の音が風にのってとどいてくる。

 「やっぱり海に来るとおちつくよなあ…」
 「そうだろう。やっぱり、そういうもんだよ。お前も心底、田舎モンってことさ」
 「そういえばさ…」
話題は、さっきまでのものとはガラリと変わった。
3人の間の空気も、1年ぶりという重い空気はなくなっていた。
高校や大学時代のころにそうだったように、他愛も無い話で笑い転げた。
波の音をBGMに、尽きることも無い話が時間と共にすぎていく。

やがてそれぞれの生活に戻っていく。日常の中のほんのひとときだけれど、
回帰する瞬間というものは心がリフレッシュされると思う。
新しく知ることは好奇心を揺さぶるけれど、そのぶん刺激が強い。
なつかしい仲間に会うということは、故里に触れること、感じることだと思う。

未来の時間はつくることができるけれど、
過ぎ去った時間は取り戻すことができない。
友達というものは、本当にいいもので、人生のかけがえのない財産なのだと思う。
夜の砂浜を歩きながら、そんなことを考えていた。


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