2012/12/4(火) Ocean Drive(5)〜横浜

12/4 18:30 ホテルにチェックイン

ナビの案内通りに走ったので、どういう道を走ったのかよく覚えていないけど
きらびやかな横浜の夜景を観ながら、高速道路を縦横に走って
6時半頃にホテルにチェックインしました。この日の宿は、メルパルク横浜
いわゆる郵便貯金のアレで、昔ながらのホテルです。
値段が安かったのもあるけど、ここに惹かれたのは立地のよさ。
海がすぐ目の前で、ベイブリッジなんかもバッチリ見えるんですよね。
氷川丸やマリンタワーもすぐ目の前にあったし。
というか、横浜の街って、どこを見ても夜景がすごく綺麗で、画になる街ですよね。

ホテルに着くまで、車内のBGMは「ベイ・ブリッジ・セレナーデ」
(『Road Out "Tracks"』のライブバージョン)がエンドレスでした(笑)

こういう時、夫婦揃って省吾ファンなことが嬉しいです♪
言葉にならない雰囲気を共有できるのって、素晴らしいですよ。

中華街へ

夕食を食べに、中華街に繰り出しました。

愛群

奥さんのリサーチで、このお店に決定。
愛群(アイチュン)というお店です。

青島碑酒

人気のある店らしいけど、夜7時くらいだったんだけど、まだお店は混んでなくて。
ゆうゆうと座ることが出来ました。

メニューを見たら日本の普通のビールしかなかったんだけど
「チンタオビールないの?」と聞いてみたら
持ってきて出してくれました。言ってみるもんだ(笑)
中華には、やっぱりチンタオビールが合うよね。

奥さんはここの名物、「牛バラ肉の煮込みご飯」。
パッと見はカレーライスみたいですけどね(笑)
中華なあんかけがかかったご飯です。
少し甘めのあんが、独特の味で美味しかったです。

僕はチャーハンを食べたんですが、ご飯がパラッパラで美味。
チャーハンをカラッと作るのって、とっても難しいですよね。

関帝廟道

食後、夜の中華街をブラブラと散策。
チャーハンだけでは満腹になってなかったので、点心をツマミ食いしたりね(笑)

関帝廟

中華街といえば、やっぱりここ。関帝廟です。

僕は大学で中国文学を専攻していたんですが、いわゆる三国志マニアでして(笑)
大学生の時、ここに来たことがあるんですよね。18年ぐらい前かな?
その時のこと、全っ然覚えてないんですが(笑)
当時は学生で貧乏だから、高い中華料理を食べるでもなく。
今みたいに簡単にお店を検索とかできなかったしね。
ただひたすら歩いて、いろんなお店を物色したり、中華書局で原文の本を買いあさったり。
そういう思い出だけがありますね。
ご飯は、牛丼かカレーか何か、チェーン店で食べた気がする。

その時にもこの関帝廟に来てるんだけど、当時より建物が豪華になってるような?
今みたいにケイタイやデジカメもなかったから、写真もないし、よく覚えてないです。

ということで、いろいろ奥さんにレクチャーしようとしたら断られたので(笑)
この場に書いておきます。興味のある方のみ、どうぞ。

関聖帝君(関羽)とは
関聖帝君(関羽)は、西暦160年前後の後漢、三国時代にかけて活躍した実在の武将です。姓は関、名は羽、字(あざな)を雲長という。

後漢末期の宮廷内部は宦官の悪政のため、漢王朝は末期的な症状を呈し、そのために世の中は飢饉と貧困が蔓延し、黄巾賊(太平道という宗教集団・頭部に黄色の頭巾を被っていたので黄巾とよばれた)の反乱が世の中を騒がせていました。 乱世をただすため、関羽・張飛・劉備の三人は義兄弟の杯をかわし、義勇軍に参加し黄巾賊征伐に立ち上がります。
「天に誓う。、我ら生まれた日は違えども、死すときは同じ日同じ時を願わん」
 これは劉備を長兄、関羽を次兄、張飛を末弟とした義兄弟のそして主従の杯をかわしたときの有名な台詞で、これを「桃園の誓い」といい、この日より関羽は劉備に生涯忠誠を誓い、義弟張飛とともに劉備を助け、国家の安泰のために国作りに立ち上がりました。

 建安5年(西暦200年)劉備は小沛で曹操に敗れ、袁紹のもとに落ちのびたとき、関羽の元には劉備夫人が居たために、曹軍の武将張遼の説得を受け入れ、曹操に降伏を決意します。しかし、関羽は曹操に降伏するにも、次の3つの条件を引き替えに出しています。
 1、曹操に降伏するのではなく漢朝に降伏する。
 2、劉備夫人の安全を保証すること。
 3、劉備が生きていることがわかれば劉備のもとに帰る。
 このことでも判るように、関羽の劉備に対する忠誠心は、揺るぎない絶対的なものでした。曹操はこの様な関羽の人柄に惚れこみ、偏将軍の位や金銀財宝を与え、さらに赤兎馬という名馬を与えたりと、礼遇をきわめました。しかし、関羽は金銀財宝には興味を示さず、それらをすべて劉備夫人に献上し、赤兎馬だけを手もとに残し、これで劉備のもとに駆けつけられると喜んでいたといわれています。
やがて袁紹が白馬に攻め込んでくると、関羽は曹操から受けた恩への返礼として袁紹軍の将顔良、文醜を切り曹操軍に勝利をもたらします。その後、離散していた劉備の行方が分かると屋敷を片付け、贈物をすべて曹操に返還し、劉備夫人をともない曹操のもとを脱出します。関羽は劉備夫人を守りながら、5つの関所と6人の将を斬り倒し、劉備のもとへと向かったと言われています。

 また、「赤壁の戦い」や「荊州南郡進攻」などは、関羽の義侠心の厚さをより一層物語るものとして語りつがれています。 まず、赤壁の戦いでは、逃げてきた曹操の命乞いに対し、それを許しています。袁紹軍の武将顔良、文醜を斬って恩を返したとはいえ、「義」に厚い関羽は曹操の要求を断ることができなかったのです。荊州南郡の長沙城を攻めたとき、老将黄忠と一騎打ちを演じましたが、黄忠が落馬しても「馬を乗りかえられよ」と引き返していくなど、史上これほど義侠心に厚い人物は類を見ません。

また、関羽は常に弱い立場である民衆の味方であったため、戦死した後も人々から支持され、関帝として祀られ崇拝され続けました。
 関羽に対する崇拝は、蜀建国後七年、つまり死後九年(西暦228年)、蜀漢から壮繆候の謚(おくりな)を授かり、祭祀されたことから始まります。その後、歴代の王朝は関羽を神としてあがめ、民衆に深く愛されるに至ったのです。

  また武将として理財にも精通していたため、商人は「財神」すなわち金儲けや商売繁昌の神として信仰しています。 武将にとっても商人にとっても一番大切なものは信義・信用という点から、商業神としての信仰も厚く奉られています。

なお、これらの逸話は『三国志演義』によるもので、すべてが史実というわけではないのでご注意ください。
だけど、関羽が軍神として畏れられ、民衆の信仰の対象として愛されているのは事実です。

関羽

関羽像

三国志のことを話し始めたらとまらないので、またの機会に(笑)

前述通り、横浜は夜景が綺麗です。

夜景

ハーバービュー。

夜景

ライトアップされた氷川丸。

夜景

マリンタワー。

明日はいよいよ旅行の最終日です。