About Shogo Hamada
〜浜田省吾ってどんな人?〜

ブルーの字は浜田省吾本人の談話、黒の太字はレコードや映像作品のタイトル

路地裏の少年−プロフィール〜10代の頃
浜田省吾(本名)、1952(昭和27)年12月29日生まれ。
辰年、やぎ座、血液型はO型。生まれは広島県竹原市。
警察官の父親の長男(姉が二人の3人兄弟の末っ子)として生まれる。
小学生の頃ビートルズに出会い、その虜となる。
中学の頃から音楽に目覚め、姉のガットギターを奪って独学でマスター、しだいにロックンロールやリズム&ブルースなど様々な音楽に浸っていく。
呉三津田高校を卒業後、1年の浪人生活を経て神奈川大学に進学。
しかし友人たち(町支寛二、青山徹ら)と結成したバンド「愛奴(現在はAIDOと表記)」に夢を託し大学を中退。
二人の夏−プロデビュー〜20代の頃
愛奴は、吉田拓郎のバックバンドとして全国をツアーした。バンドではドラム、ボーカルを担当。
そのような経験を経て、1975年、シングル「二人の夏」とアルバム「愛奴」でプロデビュー。
「二人の夏」について−「ところがこれがさっぱりヒットせず・・・」

だが、音楽性の違いから「愛奴」を脱退、1976年にシングル「路地裏の少年」でソロデビューを果たす。
「路地裏の少年」について−「はじめは「青い目の少女」とかっていうタイトルで、このメロディで初恋の女の子のことを歌っていたんです。でも、その(恋の)ことは歌にするのはよそうと思って(笑)、詩を書き換えた。」

身長170cm、体重60Kg。サングラスをしてステージに上がればBIGなミュージシャンと化す。
トレードマークのサングラスはレイバンを愛用。「愛奴」でプロデビューした当時からかけている。
サングラスについて−「これをかけてると打ち解けにくいかもしれないけど、はずすと打ち解けすぎるんだよね(笑)」

ソロデビュー当時は町支寛二と二人で全国のライブハウスなどをまわっていた。
だが渾身の1stアルバム「生まれたところを遠く離れて」は、思いとは裏腹に売れなかった。
その後もジレンマに悩む年月を重ねるが、CMソングとして使われたシングル「風を感じて」で初のヒットを果たし、本格的な全国ツアーを開始する。この頃、テレビにも出演したり、ラジオのDJをしたりと幅広く活動していた。
1982年にはアルバム「愛の世代の前に」を発表、日本武道館でコンサートを開催。この時から彼のコンサートツアーは「ON THE ROAD」とネーミングされるようになった。
この年(1982年)について−「とにかくメチャメチャにコンサートをやった記憶しかない」

この後、時代の風は次第に彼に追い風を吹かせていく。
J.BOY−疾走期〜30代の頃
武道館を越えて、さらに彼は加速していった。
1983年、独立事務所「ロード&スカイ」を発足。福岡県海の中道海浜公園で初の野外イベント「A PLACE IN THE SUN」を開催。ツアーバンド「THE FUSE」は円熟を迎えた。2度目の野外コンサートを横浜スタジアムで開催。アルバム「DOWN BY THE MAINSTREET」を発表。路地裏でNo.1を夢見た少年は、いよいよ表舞台へと走り出した。

1986年の2枚組アルバム「J.BOY」は初のチャート第1位を記録。名実ともにトップへとのぼりつめたのである。
しかしその後、父が死去。この年は初めてツアーのない年になった。作家田家秀樹によってこの頃のことを綴られたライフ・ストーリー・ドキュメント『陽のあたる場所』が発売、ベストセラーとなる。
父親の死について−「誰かの子供であるというのが終わるということでもあると思うんです。本当の意味で大人になる。生の輝きと、その脆さみたいなもの、誰もが病んで死んでいくことの確実さをしっかりと見つめた感じですね。両親が生まれたときに授けてくれた小さな芽は、僕のなかでずっと育ってる。時間とともに育っていって、今も育ち続けてる。」

1988年、3度目の「A PLACE IN THE SUN」を静岡県浜名湖畔渚園で開催。29曲、3時間50分のステージはまさに浜田省吾が時代の顔であることを証明するに足るものであった。

時代は昭和から平成、1980年代から1990年代へと移ろい、時代を歌ったアルバム「誰がために鐘は鳴る」を発表。さらにバラードリメイク3部作を作り、初のライブビデオ「ON THE ROAD "FILMS"」をリリース。

しかし、彼のあふれるパワーは作品の創造だけにとどまらない。全国をコンサートツアーでまわる。メディアに頼らず、地道の活動を続けているからこそ彼のファンは根強く、幅広い層の支持を得ているのである。このツアーに同行取材した田家秀樹によってツアー・ノンフィクション『ON THE ROAD AGAIN』が発売された。そして、ドラマの主題歌としてリメイクされたシングル「悲しみは雪のように」が発売され、17年目にして初のシングル・チャート第1位に輝く。その大ブレイクに伴い「浜省ブーム」が起きる。
しかし、実はこの頃、彼自身は精神的なボトム・ラインをさまよっていた。世間の注目とは反して本人がインタビュー、取材などに姿を見せることはなかった。
この年(1992年)について−「語ること、語るべきこと、語れることが何もない1年。ただ、ダウンしてました。僕をとりまく音楽環境は非常に盛り上がっていたんだけど、僕自身は今までの人生のなかで、最もボトム・ラインでしたね」
青空のゆくえ−“今が全盛期”〜40代
チャートの1位を獲得したことでは彼の心は満たされなかった。アルバム「その永遠の一秒に」の発売とともに2年間の休養期間を終え、再びツアーへと旅立つ。その途上では最高のパートナー、町支寛二の脳腫瘍による手術・入院、自身のアメリカ旅行中の交通事故など様々なことがあるが、やはり自分の帰り着く場所はロード、全国の街々を巡るコンサートツアーなのだという結論に帰着する。生活をするようにステージをする。そんな日常的な中に、素晴らしいメロディと詩をこめる。そんな中で作られたアルバム「青空の扉」は全編をラブ・ソングで綴った名作である。

「ON THE ROAD 2001」。1998年から2001年末まで続けられたロング・ツアー。世紀を超えて4年間、198回の公演を彼は疾走した。その中でも、現状に甘んじることなく常に新しい試みに挑戦。より一層洗練されたサウンドはアルバム「SAVE OUR SHIP」で結実した。
MY FIRST LOVE−現代〜60代
4年間の長い旅を終え、映像作品を製作したり、バラードアルバム「初秋」、Fairlifeなど様々な音楽的試みを経て、50代を迎えた浜田省吾が新たに動き出す。
4年ぶりに製作された待望のオリジナル・ニュー・アルバム「MY FIRST LOVE」は少年の頃に恋したロックへの思いを込めて、“ひと言で言うと「初心に帰る」、それでいてまた新しいドアを開けた感じ”と本人も語る快作。主人公の男達の日々の中にある“光と陰”、その一瞬一瞬を切り取った、情景豊かな浜田省吾ならではのロック・アルバムとなった。
そして、ニュー・アルバムをひっさげ、4年ぶりのコンサートツアーへ。

まだまだ彼の音楽の旅は続く。
その中で彼は多くの人に出会うだろう。彼の歌に励まされ続ける多くの人々に。そんな暖かいファンたちが、彼の音楽を愛してやまない人々が、様々な街角で彼の「帰り」を待っている。無数の夢をのせて青空に輝く、多色にして無色の虹。その虹の果てにはいつも彼らがいる。いつでもどこかの街で歌っている。それが彼の、浜田省吾の生き方であるからだ。路地裏でトップを夢見て、その頂点にのぼりつめた男。彼が今求めるものは無数の人々の笑顔である。