僕と浜田省吾
めちゃめちゃベタなタイトルですが(笑)
夏休みの読書感想文みたいなノリで、気楽に書こうと思います。
あいかわらず、字がいっぱいです(笑)

 はじめに
「Sunny's Day」を運営している関係で、嬉しいことに様々な方からメールを頂きます。
やっぱり「私も浜田省吾ファンです」というメールが多いのですが、そのメールの返事に僕が
「僕は1998年が初めてのコンサートなんですよ」と書くと、大抵驚かれる。
なんでかわかんないけど、もっと前から行ってるように思われてるんだよね(笑)

ってことで、意外と知られていない(笑)僕と浜田省吾の音楽との出会い。
そして、僕が初めてコンサートに行ったときのことなんかを書いてみようと思います。

「そんなの、どうでもいいよ」という方は読まなくて結構です(笑)コチラから戻ってください。

<出会い編>

 1.僕と“ハマショー”の音楽との出会い
ハマショー度:レベル1
これは、「自己紹介」の中の「音楽史」でもちょっとふれてるんだけど。
あれは、高校生の頃だったろうか。中学の終わり、高校に入った頃から音楽に目覚めはじめた僕。
その中に他のアーティストに混じって、「浜田省吾」の名前もあった。

初めて聞いたのは高校1年生の終わりの頃(1990年)だったと思う。
キッカケは忘れたけど、アルバム『誰がために鐘は鳴る』をレンタルしたのが最初の出会い。
最初は、彼独特の声が好きになれなかった。
でも、「太陽の下へ」という曲はすごく気に入った。歌詞が、すごく深くて・・・。
一番最初に好きになったこの曲、今でも大好きなんだけど。

それからしばらくして、バラードアルバム『WASTED TEARS』『EDGE OF THE KNIFE』の2枚を
レンタルした。最初は、このテープ3本。
すでに好きになっていたBEGINや、渡辺美里、LINDBERGらを聴く合間に、聴いていたんだと思う。
でも、まだまだ深くは至らず。
「君だけを愛している」って曲(ロマンスブルー)、いいよね。とか、
「遠くへ〜」って曲もなかなかだよね(遠くへ)って程度だった。曲名と歌詞が一致せず(笑)

高校2年生になって、クラスメートにM田君というヤツがいた。
彼も浜田省吾(当時はハマショーでしかなかった)を聴くらしい。
僕とM田は、ハマショーについて話をするようになった。
M田は兄の影響で聴き始めたと言ってたかな。「なかなかいいよね」とお互いに言い合ってた。
その頃にはレンタルにつぐレンタルで、5〜6枚ぐらいのアルバムをテープで持ってたはず。

それからしばらくして、テレビドラマで、ハマショーの曲が全編流れるらしいことを知った。
ちょっとハマショーが好きになってた僕は、そのドラマを見ることにした。
フジテレビの『愛という名のもとに』がそれだ。
江口洋介、唐沢利明、鈴木保奈美らが繰り広げる青春ドラマ。
その主題歌となり、シングルカットされた「悲しみは雪のように」が大ヒット。
だけど僕は「へへん。僕はヒットする前から聴いてるんだよ。ちょっとすごいよね」と(笑)
今思うと、とても恥ずかしい思い上がりだよね(笑)
ちょっと聴きのハマショーだけど、けっこう知ってるつもりではいたんだよね。
(ちなみに、この頃富山にもコンサートに来てたんだよね。その頃に行っていれば・・・。もったいない)

 

 2.少しずつファンに・・・
ハマショー度:レベル5
ドラマのブームもやがて過ぎ去り、僕は大学生になっていた。
大学生にもなると、オトナな心情が色々と芽生えてくるもの(笑)
その頃にはすでに、僕の中でのメインストリームはハマショーとBEGINの2つだった。
レンタルしていたアルバムも、やがてCDで買い集めるようになった。
お金もなかったし、中古でコツコツと集めていたと思う。

大学1年の秋(1993年)に出たニューアルバム『その永遠の一秒に』は、予約して買った。
僕にとって、初めて発売日に買ったアルバムだ。
ワクワクしながらCDを聴いてみると・・・いきなりのバイクの音(笑)
しかも、全編がテクノっぽいというか・・・ド派手なサウンド。
「ちょっと違うなぁというか、期待はずれだな・・・イメージじゃないな」
ってのが、正直な感想だった。やっぱり僕は、バラードが好きだったから。
だからこのアルバムも「星の指輪」と「初秋」ぐらいしか聴いてなかったね、しばらくは。
今でもそんなに好きなアルバムではないんだけど(笑)
ちなみにこれ以降は、すべてのアルバムを予約して、発売日に買ってます。

 

 3.幻の初コンサート
ハマショー度:レベル12
やがて大学卒業の時期も近づき、アルバムもほとんどを買い揃えていた僕。
すっかり“ハマショーフリーク”な感じだったんだよね(笑)
CDで聴いてるだけのファンだったんだけど、ほとんど「天下獲ったぞ」状態(笑)
「ほとんどのアルバムを持ってて、曲をいっぱい知ってるぞ」ってだけで、
かなりのファンだと誤認していたんだよね(笑)まだまだ青いものだよね。

4年生の終わり頃、ニューアルバム『青空の扉』がリリースされた。
そんな中、なんとハマショーが渋谷のスペイン坂で、ラジオに生出演するらしい。
「おお。渋谷ぐらいだったらすぐ行けるし、ちょっと覗いてくるか」と思った僕。
たしかその日は、日曜日だった。地下鉄と山手線を乗り換え、渋谷に辿りついた僕。
あまり渋谷なんて行くことはなかったので、ちょっとドキドキ。
しかし、駅を出ると、なんだかすごい人ごみ。
「さすが渋谷だなぁ。人がいっぱいだぁ」と思いつつ、歩く。すると、人ごみはみんな同じ方へ・・・。
もしかして?と思った通り、みんな目的地はスペイン坂のスタジオだったんだよね。
たしか2時間ぐらい前に着いてたと思うんだけど、かなりの人垣。僕は、かなり驚いた。
「なんでハマショーが、こんなに人気あるんだろう?」って思ったね(笑)
ラジオの前に、現地では何かイベントがあって。ビンゴゲームみたいのをやってたっけ。
「浜田 de ビンゴ」とか、なんかベタなタイトルだったような気がする(笑)
そのビンゴゲームで、僕は非売品のバンダナをもらいました。
他にも、「特別!本日限り・浜田省吾バージョンプリクラ」とかいうのもあったなぁ。
そうして待っていたんだけど・・・あまりの人ごみに、待つのがイヤになって。
ハマショーが登場してくる前に、僕は帰っちゃったんだよね(笑)
今思うともったいないよね、本当に(笑)それが初の、「幻の急接近」でした。

それからしばらくして、僕は思った。
「大学も卒業だし、せっかく東京にいるんだし、コンサートにでも1度行っておくか」と。
(ちなみに当時の僕は、コンサートといえば高校生の時にJ-WALKを見に行った1度きりでした)
その頃は、「ON THE ROAD '96」の時期。
僕が狙いを定めたのは「横浜アリーナ」とかいう会場。
なんでも、ローソンで○月△日の朝10時から、電話予約ができるらしい。
「そうか。それなら、トライしてみるか」と。全く何も知らない僕は、いたって気楽なもの。
「寝過ごすといけないし、徹夜してその時間まで起きてるぞ」と誓った僕。
友達と朝までゲーム三昧で時間をつぶし、いよいよその時間を迎えた。

午前10時。その瞬間に電話をかけるも、つながらない。話し中だったのだ。
「あれ・・・おかしいな?電話番号は・・・あってるよね?」
コンサートのチケット予約電話なんて、初めての僕。全く勝手がわからない。
(ちなみに・・・今思うと予約電話って、後にも先にもこれっきりですね)
おかしいなぁと思いつつ、リダイヤルしてみる。話し中。
「あれ?そんなはずは・・・?」と思いながら、リトライし続けること30分。
10時半になり、ようやく電話がつながった。
「なんだよー。えらい時間かかったなぁ」と思うと、向こうはテープらしき女性の声。
たしか、こんな感じの内容だったと思う。
「ご希望の公演のチケットはすべて完売いたしました」
「ええっ?!そんな馬鹿な?たった30分しかたってないのに?!」
ただ愕然とするしかない僕。まさか、たった30分で完売するとは・・・
「おそるべし、ハマショー。そんなに人気があったのか・・・」
と思ったものでした(笑)
だから、ファンじゃない人とかが「そんなにチケットとれないの?」って言う気持ち。
よ〜くわかるんですよね(笑)

浜田省吾人気の恐ろしさの断片を、初めて思い知ったあの日。
あの日から僕の中で“ハマショー”“浜田省吾”になったんだよね(笑)


 4.衝撃の出会い
浜田省吾度:レベル19
大学を卒業して某外食企業に就職した僕は、勤務地の関係で、富山に戻ることになりました。
平成9(1997)年、22歳の春。
あいかわらずCDで聴いてるだけのファンの僕。
でも、ほとんどの曲は歌詞を見ずに歌えるレベルまで達し、その状態ではかなりの極みに達していた。
「まぁ、僕にかなう人なんていないよね」ぐらいに思ってたと思う、たしか(笑)

そんな僕を、衝撃の出会いが待ち構えていた。あれはたしか、1997年の9月だったと思う。
仕事上、ホールもキッチンも両方やっていたんだけど、その日はたまたまホールだった僕。
そこに、二人の女性がお客としてやって来た。忙しいランチ時も終わった頃だったと思う。
いつものように、わりと気楽な応対をしていた僕。
しばらくすると、その二人が、テーブルいっぱいにテープを出してきた。
そして、何やら楽しげに話している。「へぇ・・・なんかすごいな」と思いつつ、
オーダーを取りに行ったときに、気軽に「なんのテープですか?」と聞いてみた。
すると、こともあろうに「浜田省吾のテープです」という答えが!
僕はもう、一瞬で仕事モードからプライベートモードな気分になっちっゃて(笑)
「僕、ファンなんです!」って言っちゃったんだよね(笑)
その後のことは、実はあまりよく憶えていないんだけど(笑)
この時の様子がファンクラブ会報の86号に載っているんですが。それによると・・・
 それから彼は、私たちからオーダーをとるのも忘れ、
 どれ程自分が浜田省吾ファンかを語り始めました。
ということらしいです(笑)
僕たちはすぐにうちとけてしまって、省吾のラジオ出演をおさめたそのテープを借りて。
紙ナプキンに名前と連絡先をそれぞれ書いて交換しあったんだよね。
彼女たち(ゆめさん、YAKKOさん)が、僕の初めて出会ったコアな省吾ファンでした(笑)
ホント、彼女たちとの出会いが僕の人生を大きく変えたんです。

それからは、急激に時が流れ出して。
ファンクラブにも入ったし、リリースされていた2本のビデオも買ったし。
大学の終わりに買っていた「浜田省吾事典」も、読みあさったね(笑)
前述の二人に、古い資料とか昔の会報を見せてもらったり。
いろんな知識を、これでもかってぐらいにつめ込んでいきました。

すると・・・今までは知らなかったことがいっぱいあって。
浜田省吾は、僕が生まれた頃からプロデビューしていて、それから既に20年が経っていること。
かつては愛奴というバンドに所属していたこと。
町支寛二という人が古い親友で、ツアーバンドのギターを弾いていること。
「悲しみは雪のように」よりもずっと前に、アルバム『J.BOY』の大ヒットで
すでに浜田省吾ブームが巻き起こっていたこと。
何も知らなかった僕は、ただ驚くばかりでした。
何よりも、実際にコンサートを体験していた二人の話が僕をかきたてたんだよね。
上には上がいるもんだと、あらためて思い知ったのでした(笑)

「疾走編」へ続く